ひとりごと日記帳

ひとりごと

同じ時間生きるの

 与えられた環境に感謝したいと思う程度にはポジティブな感情を抱いていて、それを生かせるかどうかは自分次第なのだけれど、来月からの生活がどれくらいキツいのかそれとも楽しいのか、今年こそはサバサバとあっさり新学期を迎えようとしていたものの、またも不安と期待が入り混じる4月ということになりそうで(5回目ですね)。

 

 毎晩食べたハーゲンダッツ。夜のお洒落なバー。将来とか人生とかの話。公園で休憩して、それとは別にシエスタもして。動く歩道もエスカレーターも1.5倍速になって、看板の感じがとても面白くて、食べ物は美味しくて、香港旅行はいい思い出になりました。

 

 もともとそれなりの距離にいた人とは今後もそれなりの距離で関係を築いていけそうなのに、もともと近くにいた人が遠くに離れて行ってしまうような気がして、それが少し寂しいなと思います。

 



ポケットに1ダースのポーカーフェイス

 気付けばご無沙汰しておりますが、香港に行って大阪・京都に行って、帰ってきてまた働いて、とてんやわんやの楽しい日々を過ごしていたといえばそういうことになります。今日に新学期の予定も立てました。週3日はきちんと大学に行くつもりです。

 

 卒業式があって、僕は卒業できなかったのですが、自分の人生を少しでもきちんと引き受けられれば良いのになと思います。逃げちゃダメだと呟きながらいつも逃げてきた人生ですので。

 

 何とかなってほしいです。色々と。次は僕の番なのだ。

 


みんな忘れるはず

 軽薄だ、といえば、軽薄であることは間違いないのであるが、一方で軽薄なものを軽薄だと指摘する軽薄でないお前は一体何なのだというカウンターパンチは避けがたく、臆病さの裏返しかはたまた生活文化の違いと割り切ってしまうのか、いずれにせよ重厚軽薄のスケールで語れるものでもなく、場の雰囲気であったり居心地の良さであったり集団心理であったりというものに否応なく個人は飲み込まれてしまうということを認めてしまいたいし、何をそんなに必死になって守りたいのか、守るべきものがあるのか、と問い詰めたくもなり、表面の物語が剥がれて原形質の名付けがたいゴニョゴニョとしたものに全体が覆われていく。

 

 

煮え切らないメロディに添って

 言うべきことが何もないというのは以前からで今はそれを正面から認めているという点で同じ空虚な人間であるとはいってもまだマシかもしれずしかし一方でその認識からどこか別の場所へ抜け出せるかというとそれもまた不明でここは終着点としては悲しすぎるにしても結局は身動きの不自由な現実の世界において束の間の休息を愛おしみ束の間の自己満足で虚栄心を充たし束の間の好意で寂しさを紛らわせるくらいしか選択肢として残されていないように思う。

 

 「ロマン主義の一般的特徴は、かれら自身の存在が中心をもっていないため、ロマン主義にとっては、あらゆるものが精神生活の中心となりうる、ということである。真正のロマン主義にとって、中心を占めるのはつねにただ、かれらの自我、才気に富み、反語的で、だがけっきょくは根拠をもたない自我なのである。」

 

 K・レーヴィットがC・シュミットを評した文章でこのように述べていたことをふと思い出して引用してみる。根拠のある自我なんては欲しくないし存在の中心も別にいらないのだけれども、ただ、何かを欲望せずには生きていけそうにないという事実に思いを巡らせる度に、気が重くなるような、俺はまだまだ生きていけそうだと思うような。そして、軽いため息。

 

 



なるべく傷つけぬよう傷つかぬように

 迷いに迷ってまだ迷って、僕の知らない間に考え方が改変されていって、でもヒーローになりたいだなんて子供じみた空想は脳裏を離れず、+か-かの二択ではなくてまずは価値判断の枠組みを熟考して逡巡して少しずつ進んでいくような世界で己の能力を発揮したいというような、そんな無いものねだりが3月の冷たい風に晒されて消え失せてしまう瞬間を眺めながら、君の声が聴きたいと切に願うお前の行く末は一体どこなんだという絶望的な問いに、軽く吐き気。

 

 よくある龍の描かれた天井があって、それを見ていないようで実はしっかり見ている男性が一人、ボクサーと柔道家との戦いを横目に、前年度と今年度との相違点について考えたりする。名前が最初から無かったり、あったとしても間違っていたり、勉強しかできない人間にはなりたくないという勉強しかできない人間の往生際の悪さが目についたり、地下から侵入する別のルートを発見しては感動したりするのだが、不条理なことは一つとしてありゃしない。

 

 まだまだ続きます。

 

 




季節を抱くように

 それなりに楽しいのですがこういった状態がずっと続くというのも想定しがたいので、特に楽しくも何ともなくなったときにもそれなりに日々を過ごせればいいのかなあなんて思ったり。

 

 別にそういうつもりじゃないって言いながら、でもそういうつもりかもしれないし、仮にホントにそういうつもりじゃないにしても、その状況証拠は一体どうなの、みたいな話はあって、とりあえずお米アレルギーの人は大変だなあと感じました。

 

 


そしてどうかなくさないでよって

 また一週間が終わって、洗濯をして、明日の考査の勉強を始めないと不味くて、塾講師の仕事をこなして、気分次第でまたビールバーでビールでも飲んで、というような土曜日であります。

 

 人生もう少しのんびりと考えられるようになったらいいのですが、勉強してみたいなと思うことが結構多くて、それに見合う時間や能力が足りなくて、悲しいなあと思うことが多いです。しかたないですけども。